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シティズンシップ教育批判への一考察。

『教育(自由への問い 5)』という本の中に、仁平典宏先生が書かれた「〈シティズンシップ/教育〉の欲望を組みかえる」という論考がある。


教育 (自由への問い 5)教育 (自由への問い 5)
(2009/12/23)
広田 照幸

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最近、シティズンシップ教育の思想的背景やその論争点について(直接的には専門外ではあるが)勉強しているのだけれど、まさにそこに触れている文章だった。思うところを、備忘録も兼ねて記しておきたい。


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マーシャルらが提唱した、旧来の社会的シティズンシップ/福祉国家的シティズンシップを組み替え、active citizenshipを思想的背景として出てきたシティズンシップ教育。そこに仁平先生はメスを入れている。


論考内で指摘されていたのは、主に次の2点だ。少し長いけれど、引用する。


一点目は、教育される側の「『内面』の自由」と名指されてきたものである。教育がいかに善き意図に基づいていようとも、それは特定の価値・態度を注入することで、被教育者の「内面」の自由を奪い、特定の主体を成立させる権力である――かつてこのような批判があった。しかし現在、この種の批判は後景に退き、「シティズンシップ教育」も含め、「教育」に対する畏れ・ためらいは見られない。しかしこの教育=権力という問題設定はどのように後景化していったのか。それはもう顧みられる必要はないのか。

二点目は、「シティズンシップ教育的なものから降りる自由」である。シティズンシップ教育は、先の報告書でみるように、「福祉国家から小さな政府への転換」という社会認識を前提としているが、そこで人びとは、主体をバージョンアップするという〈教育〉の意味論に補足され続ける。そこから抜け出す回路を、シティズンシップ教育は配備しているのだろうか。



まず1点目の指摘は、シティズンシップ教育は、その性質上、いわば何かしらの形であるべき市民像を規定しているという指摘だ。そして2点目は、(その後の議論も踏まえて少々言い換えるならば、)参加しない(あるいはできない)人を、いわば“市民”ではないとして排除することにつながらないか、という指摘だ。


つまり、これらをまとめて言うならば、active citizenを“あるべき市民像”として規定しつつ、そのような条件を満たさない人を排除することにつながらないか、ということだ。


マーシャルの社会的シティズンシップの議論とも関連するところだけど、“参加”がいわば社会保障の前提となり、“参加しない”人は社会保障を享受できないとなるならば、それは確かに違和感がある。


また、ここでは社会保障の議論になっていたけれど、例えば「参加の陥穽」論や、広田照幸先生の“開かれた学校づくり”批判などでも言われているように、住民・市民参加による意思決定についても似たような問題点がある。こういった場には、参加するのは一部の人であり(参加する層としない層との違いには社会的属性が強く関わっている)、社会背景の多様性が反映されないことがあるにもかかわらず、「みんなで合意したことだから」という新たな正当性を帯びて、マイノリティや社会的弱者の声を封じ込めかねない。


こういった問いに対して、シティズンシップ教育や、参加民主主義・市民社会を推進していく人たちは、どう答えていくか。


決して容易なことではない。


ただ、自分自身は、シティズンシップ教育という文脈において、今考えられる答えを一つ書いておきたい。


自分自身も、“あるべき市民像”を明確に規定することには、違和感がある。社会参加・市民参加は、権利ではあるけれど、義務にはなりえない。(だから、社会システムとして参加と社会保障がセットにされる怖さについては、常に自覚的でないといけないと思う。この点については、シティズンシップ教育の実践という観点からは外れるので割愛するが。)


それぞれの人にとって、それぞれの生徒にとって、“市民として生きる”ということの意味、あるいは“自分と社会との関わり方”というのは違って当然だからだ。


だから、社会参加・市民参加は、「参加」か「非参加」かというような二項対立的で語れるものではなくて、参加の形も、参加の程度も、多様なものだと思う。それぞれの人が、それぞれの場所で、それぞれができる参加をする。その多様性に対しては、常に寛容でないといけない。


それでも、次の世代に対して、教育を通して伝えないといけないことは、やはりあるとは思う。シティズンシップ教育を通して、市民参加の重要性を伝えていくことは大切だろう。ただ同時に、生徒側(それも多様な生徒)の価値観に対しても、開かれている必要がある。小玉先生が『シティズンシップの教育思想』で言っている、“先行世代と後継世代の出会いの場”・“過去と未来の衝突の場”としての学校像にも通ずるかもしれない。


シティズンシップの教育思想シティズンシップの教育思想
(2003/11)
小玉 重夫

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皆が社会に参加すべきと考えている人もいる。参加したくない人もいる。参加できない人もいる。では、どうするのか。この問い自体に、学校の中で、皆で考えていくことが必要なんだと思う。


学校は小さな社会である、あるいは社会の縮図である、とよく言われる。だからこそ、まさにその“小さな社会”において、そこでの差異や多様性に、正面から向き合っていくことが大切なはずだ。


Richard M. Battistoniが、「Service Learning and Civic Education」という論考の中で、子どもたちにどうなってほしいのか・どんな市民に育てたいのか、という問いについて、常に考えていく必要があることを強調している。そして、「私たちは、民主的な市民とは何を意味するのかという問いへの多様な見方に対して、開かれていなければならない」と述べている。


ここで書かれていることは、サービス・ラーニングやシティズンシップ教育の指導者(教員)に対するものだろう。けれども、これは教室という空間で、あるいは学校という場所で、教員も生徒も一緒になって皆で考えていくべき、きわめて大切な問いだ。


社会にどう関わるか。市民としてどう生きるか。そこに対する決められたなんてない。だからこそ、皆がそれぞれの考えや価値観を共有すること、それらの違いに向き合うこと、そしてそこからそれぞれが自分の中に何かを持ち帰ること。それが、大事なんだと思う。


前回のエントリーで触れた『学校を変える力』の中で、Deborah Meierが、こんなことを書いている。


もしみなの意見が結局同じになるなら、民主主義の習慣など身につける必要はない。しかし、人は意見の相違 ― 個人の頭のなかにも存在するもの ― から、本来多くのことを学ぶものである。


まさにこの一文が、ここまで書いてきたことの意味を、端的に言い表してくれていると思う。


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こういった思想的な論争からときに繰り出される、本質的な批判。


そこに真摯に向き合いながら、なおもシティズンシップ教育の可能性を信じ、内省的に実践づくりと定着過程・組織化研究に取り組んでいきたい。


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学校教育高度化専攻と、小さな集まり、そして自分の役割。

“学校とは何か。その現実と可能性に対する最良の答えがここにある。”


『学校を変える力 イースト・ハーレムの小さな挑戦』 (Deborah Meier著・北田佳子訳)という本の帯に書かれた、佐藤学教授の言葉だ。

学校を変える力――イースト・ハーレムの小さな挑戦学校を変える力――イースト・ハーレムの小さな挑戦
(2011/03/30)
デボラ・マイヤー

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学校とは何か。

学校の現実とは。
そして、学校の可能性とは。


この春より自分は東京大学大学院教育学研究科の、学校教育高度化専攻というところに進学した。


この専攻は、自分なりの解釈を述べるならば、学校現場とともに、学校教育の課題に一緒に向き合い、また学校教育の高度化を目指して、実践的な研究を行っているところ、と捉えている。


また、専攻は「教職開発コース」「教育内容開発コース」「学校開発政策コース」の3コースに分かれているが、それらの異なる領域が互いに連携しながら、学際的に学校教育について知見を深めていくことを目指しているのだと思う(実際、その“越境性”については、ガイダンスでも複数の先生方が口にしていた)。


だから、言うならば、この専攻全体が、まさに冒頭に書いた“学校とは何か”という問いに向き合い、またその現実に接しながら、その可能性を信じて研究に取り組んでいこうとしているのだとも言えるのだと思う。

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この専攻は、コース間の垣根は低く、他コースの授業を積極的に取ることが推奨されているシステムになっている。それを通して、(結果的に)ある程度総合的に学校教育について考える視点を得られるのかもしれない。


ただ、とはいえ、コースの枠を越えて総合的に学校教育のあり方、学校づくり・学校改革について考えていく授業や機会はあまりないのではないか、と感じた。


もちろん、自分は進学したばかりの修士1年であるし、そんな偉そうなことを言う資格などないのかもしれない。


ただ、自分たちの学びや研究の先にある、学校教育のビジョンを、皆でしっかりと見据える機会というのは、とても重要であるように思うのだ。


そんなことをぼんやりと思っていたタイミングで、冒頭で触れた『学校を変える力 イースト・ハーレムの小さな挑戦』という本を書店で見つけた。


まだ出たばかりの新刊だが、原著は15年以上前にアメリカで出版されたもので、著者であるDeborah Meierの、Central Park East中等学校での学校改革の経験が中心となって書かれている。


内容を見れば、教育の理念的な話から、教職論やカリキュラム論、制度論など、多岐に渡る要素が含まれている。そして何より、それらの要素が統合された一つの「学校改革」のストーリーが、学校教育について総合的に捉える上で示唆に富んでいる。


そこで、ひとまずこの本を題材にして、学校教育高度化専攻で学ぶ有志の大学院生(また、加えて教育学研究科などの有志)で集まって、みんなで議論を交わす場を設けられないか、と考えた。


(なお、Meier自身も序章で“これは、ある可能性を示す一つのモデルであって、そのままそっくりまねるひな型ではない”(p. xviii)と述べているように、このモデルを完成形やゴールとしてそこから学ぼうというわけではない。ただ、この本は、総合的に学校改革について考えていく上で、一つの良い出発点になるのではないかと思う。)


というわけで、興味がある人は、良かったらぜひ一緒にやりましょう。まだ具体的にどうするかは考え切れていないけれど、小さくても良いので、まずは形にできればと思っています。もちろん、ここに書いたことは一つの案なので、提案などあればぜひ言ってください。


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ところで、自分がお世話になっている教授の一人が、先日のガイダンスでこんなことをおっしゃっていた。


“(今回の震災を受けて)単なる復旧ではなく、社会の構成原理そのものを問い直していくことが必要になってくるかもしれない。そして、そうだとすると、これからの住民・市民・国民を育てていく教育は、どうあるべきなのか。”


この問題提起には、とても共感する。


自分は教育学を学んでいる大学院生として、今の大変な状況の中で、目の前の現実に対して自分にできることをやりつつも、敢えて一歩距離を置いて、未来に向けて中長期的な“教育”のあり方について、しっかりと腰を据えて、考えていく役割があると思っている。


車の運転にたとえて言うならば、急にハンドルを右に切ったり左に切ったりという教育改革ではなく、ちょうど教習で“遠くを見る”ことを繰り返し教わるように、自分たちがどこに向かっていくのか、その行き先を意識しておくことで、少しずつ、でも着実により良い教育に向かって進んでいくことができるんだと思う。


行き先はもしかしたら、進んでいく中で変わっていくこともあるかもしれないけれど、今、遠くを見ることができる立場にいる僕らだからこそ、今見える「遠く」をしっかり見据えたい。


今回の集まりは、そんな小さな思いを形にする、一つの機会にもなればいいなと思う。