シティズンシップ教育批判への一考察。
- Day:2011.04.17 00:09
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教育 (自由への問い 5) (2009/12/23) 広田 照幸 商品詳細を見る |
最近、シティズンシップ教育の思想的背景やその論争点について(直接的には専門外ではあるが)勉強しているのだけれど、まさにそこに触れている文章だった。思うところを、備忘録も兼ねて記しておきたい。
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マーシャルらが提唱した、旧来の社会的シティズンシップ/福祉国家的シティズンシップを組み替え、active citizenshipを思想的背景として出てきたシティズンシップ教育。そこに仁平先生はメスを入れている。
論考内で指摘されていたのは、主に次の2点だ。少し長いけれど、引用する。
一点目は、教育される側の「『内面』の自由」と名指されてきたものである。教育がいかに善き意図に基づいていようとも、それは特定の価値・態度を注入することで、被教育者の「内面」の自由を奪い、特定の主体を成立させる権力である――かつてこのような批判があった。しかし現在、この種の批判は後景に退き、「シティズンシップ教育」も含め、「教育」に対する畏れ・ためらいは見られない。しかしこの教育=権力という問題設定はどのように後景化していったのか。それはもう顧みられる必要はないのか。
二点目は、「シティズンシップ教育的なものから降りる自由」である。シティズンシップ教育は、先の報告書でみるように、「福祉国家から小さな政府への転換」という社会認識を前提としているが、そこで人びとは、主体をバージョンアップするという〈教育〉の意味論に補足され続ける。そこから抜け出す回路を、シティズンシップ教育は配備しているのだろうか。
まず1点目の指摘は、シティズンシップ教育は、その性質上、いわば何かしらの形であるべき市民像を規定しているという指摘だ。そして2点目は、(その後の議論も踏まえて少々言い換えるならば、)参加しない(あるいはできない)人を、いわば“市民”ではないとして排除することにつながらないか、という指摘だ。
つまり、これらをまとめて言うならば、active citizenを“あるべき市民像”として規定しつつ、そのような条件を満たさない人を排除することにつながらないか、ということだ。
マーシャルの社会的シティズンシップの議論とも関連するところだけど、“参加”がいわば社会保障の前提となり、“参加しない”人は社会保障を享受できないとなるならば、それは確かに違和感がある。
また、ここでは社会保障の議論になっていたけれど、例えば「参加の陥穽」論や、広田照幸先生の“開かれた学校づくり”批判などでも言われているように、住民・市民参加による意思決定についても似たような問題点がある。こういった場には、参加するのは一部の人であり(参加する層としない層との違いには社会的属性が強く関わっている)、社会背景の多様性が反映されないことがあるにもかかわらず、「みんなで合意したことだから」という新たな正当性を帯びて、マイノリティや社会的弱者の声を封じ込めかねない。
こういった問いに対して、シティズンシップ教育や、参加民主主義・市民社会を推進していく人たちは、どう答えていくか。
決して容易なことではない。
ただ、自分自身は、シティズンシップ教育という文脈において、今考えられる答えを一つ書いておきたい。
自分自身も、“あるべき市民像”を明確に規定することには、違和感がある。社会参加・市民参加は、権利ではあるけれど、義務にはなりえない。(だから、社会システムとして参加と社会保障がセットにされる怖さについては、常に自覚的でないといけないと思う。この点については、シティズンシップ教育の実践という観点からは外れるので割愛するが。)
それぞれの人にとって、それぞれの生徒にとって、“市民として生きる”ということの意味、あるいは“自分と社会との関わり方”というのは違って当然だからだ。
だから、社会参加・市民参加は、「参加」か「非参加」かというような二項対立的で語れるものではなくて、参加の形も、参加の程度も、多様なものだと思う。それぞれの人が、それぞれの場所で、それぞれができる参加をする。その多様性に対しては、常に寛容でないといけない。
それでも、次の世代に対して、教育を通して伝えないといけないことは、やはりあるとは思う。シティズンシップ教育を通して、市民参加の重要性を伝えていくことは大切だろう。ただ同時に、生徒側(それも多様な生徒)の価値観に対しても、開かれている必要がある。小玉先生が『シティズンシップの教育思想』で言っている、“先行世代と後継世代の出会いの場”・“過去と未来の衝突の場”としての学校像にも通ずるかもしれない。
シティズンシップの教育思想 (2003/11) 小玉 重夫 商品詳細を見る |
皆が社会に参加すべきと考えている人もいる。参加したくない人もいる。参加できない人もいる。では、どうするのか。この問い自体に、学校の中で、皆で考えていくことが必要なんだと思う。
学校は小さな社会である、あるいは社会の縮図である、とよく言われる。だからこそ、まさにその“小さな社会”において、そこでの差異や多様性に、正面から向き合っていくことが大切なはずだ。
Richard M. Battistoniが、「Service Learning and Civic Education」という論考の中で、子どもたちにどうなってほしいのか・どんな市民に育てたいのか、という問いについて、常に考えていく必要があることを強調している。そして、「私たちは、民主的な市民とは何を意味するのかという問いへの多様な見方に対して、開かれていなければならない」と述べている。
ここで書かれていることは、サービス・ラーニングやシティズンシップ教育の指導者(教員)に対するものだろう。けれども、これは教室という空間で、あるいは学校という場所で、教員も生徒も一緒になって皆で考えていくべき、きわめて大切な問いだ。
社会にどう関わるか。市民としてどう生きるか。そこに対する決められたなんてない。だからこそ、皆がそれぞれの考えや価値観を共有すること、それらの違いに向き合うこと、そしてそこからそれぞれが自分の中に何かを持ち帰ること。それが、大事なんだと思う。
前回のエントリーで触れた『学校を変える力』の中で、Deborah Meierが、こんなことを書いている。
もしみなの意見が結局同じになるなら、民主主義の習慣など身につける必要はない。しかし、人は意見の相違 ― 個人の頭のなかにも存在するもの ― から、本来多くのことを学ぶものである。
まさにこの一文が、ここまで書いてきたことの意味を、端的に言い表してくれていると思う。
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こういった思想的な論争からときに繰り出される、本質的な批判。
そこに真摯に向き合いながら、なおもシティズンシップ教育の可能性を信じ、内省的に実践づくりと定着過程・組織化研究に取り組んでいきたい。
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