2013年を振り返って。

ちょっと早いですが、久しぶりに、年末の振り返りらしきことをしてみようと思います。
(ここ数年は、卒論やら修論やらで、年末はじっくり振り返る余裕がない年が続いていたのですが、今年は年明けに締め切りを2つほど抱えているものの、例年に比べるとだいぶ心に余裕があります。笑)


今年は、なにかと変化の多い年でした。あるいは、新しいことが多い1年だったとも言えるかもしれません。


研究拠点が移り、様々な出会いがあり、新たな学会での発表も数多く経験させていただきました。
博士研究では、試行錯誤のすえ新たなテーマを選び、アメリカへの訪問調査も敢行しました。
実践面では、湘南まちいくプロジェクトが本格的な取り組みを開始したほか、3月に発足した日本シティズンシップ教育フォーラムのお手伝いもさせて頂いています。
(こう振り返ってみると、改めて本当にいろいろなご縁に感謝ですね。)


変化が多いということは、それだけ学ぶことが多いということでもあるのかもしれません。


思えば今年の始まりは、修士論文の完成からでした。
それが象徴するように、一旦「完成」させてきたものをしっかり自分の中におさめつつも、新たな環境に身をおき、新たなことにトライする中で、さまざまな「ゆらぎ」があったように思います。


たくさん「ゆらぎ」ながらも、たくさんのことを学び、そして今年の終わり頃になってようやく、ほんの少しずつですが、自分の中で「ゆらがない」ものが何なのかも、改めて見えてきたように思います。


今年はたくさんの新しい“種まき”をさせていただいた年でした。中には少しずつ芽が出てきたものもあるかもしれません。来年は、それらを、少しずつ丁寧に花開かせていけたらいいな、と思っています。


ひとまず来年は良い走り出しができそうな気がしてきているので、今年の残りの時間もゆっくり温めて準備をしていきながら、来年も頑張って参りたいと思います。


まだちょっと気が早いですが(笑)、来年もよろしくお願いいたします。
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にじみ出る力に、惹き込まれて。

恩師である先生の論考が収録された本を、ふとしたことから読んだ。


先生の文章はいつも、実践の現場に根ざしながら、アカデミックな知にも裏打ちされた強い信念が貫かれており、読んでいると使命感が伝わってくる。

今回も、まさにそうした文章だった。
読み手を強く惹きつけ、奮い立たせる「力」のある文章だった。

「力」がありすぎて、本を持つ手が少し震えるほどだった。




思えば今年に入って、博士課程に進み、新たな研究に着手するも、ある大御所の先生には、
「君のいまの研究には、“色気がない”」というコメントをいただいていた。

確かに、それは自分でもうすうす感じていた。

“色気”は、きっとねらって出せるものなどではなく、にじみ出るものなのだろうと思うけれど、
ともあれ、博士研究という高いクオリティを目指すあまり、論理的な正確さが先行していて、どこか無味乾燥だった。地に足がついているように見えて、肝心なところで地に足のついていない感じがしていた。

今年の終わりに入って、ようやくそうした状態から抜け出しつつあり、先生方からも励ましの言葉をいただいているけれど、自分の中では、正直まだ物足りなさを感じていた。



そんななかで、恩師である先生の文章に触れたとき、何かが自分の中でふっとよみがえったような気がした。

現場の事実の積み重ねに根ざした、地に足のついた確かな感覚と、
教育学の広く長い営みに裏打ちされた、人を惹きつける力をもった未来図。

それらがともに、一つの文章のなかに、丁寧に織り込まれていた。
きわめて感覚的だけど、これが自分がいつか到達したい場所なんだな、と改めて原点を思い起こした。


しかも、先生の論考をはじめ、本におさめられた様々な先生方の文章を読む中で、
(たいへんおこがましいことを承知のうえで書くならば)
自分の研究もまた、そうした教育の未来図を描く、小さな一助になれそうな気もしてきた。

先生の、使命感が伝わる文章を拝読するなかで、気がつけば、自分の中の使命感が高まるのを感じた。




目指す場所は、はるか遠いけれど、でも目指したい場所が改めて見えたことで、
ぐっと地面を蹴り出す力が強くなった気がした。


年明けに締切2本が迫るものの、修論があった昨年に比べれば年末年始はのんびりできるかな、などと
考えていたけれど、すっかり火がついてしまい、おかげで年末年始も研究に打ち込むことになりそうだ。

声を発するということ

11月下旬頃に、声帯を痛めてしまった。(今はもう大丈夫です。)
耳鼻咽喉科の先生に診てもらったところ、4・5日ほどは声をなるべく出さないように、との指示があった。

幸い、直近の日は研究日に充てていたのでさほど支障はなかったのだけれど、
それでも、ちょっとした何気ない場面で、声を使うことは結構ある。

例えば、カフェに行って一人で本を読もうとしても、カフェで注文するときには声を使う。


* * *

で、いざ声をなるべく出さないように、と意識して生活してみて思うのは、
声に出そうという思いはあるのに、実際に声にならないのは、独特な辛さがあるということだ。

医者いわく、声を出すというのは、普段当たり前にしているから気付きにくいけれど、
実際は結構喉に負荷をかけているんだとか。

その「負荷」をかけてまで声を発するなら、わざわざ声を出さないでいいや、という心理が働く。
その場の話の流れに委ねてしまおう、という気持ちになる。


* * *

すぐにその場で言わないと、声を出さないと、と焦らされるのはつらいけれど、
自分のペースで、ゆっくり声を発することができるのであれば、話そうかなと思える。

声は、聴いてもらえる相手がいて、はじめて「届く」。
声を発しにくいとき、小さな声にでもゆっくりと耳を傾けてくれる人がいると、とても心強い。

そんなことを、ふと思ったりした。

新しいプロジェクトが、始まります。: 「湘南まちいくプロジェクト」

お久しぶりです。
ブログの更新が、相変わらず滞り気味ですみません…。

研究のほうでは、1月に修士論文を提出し、先日修士課程の修了が確定しました。
また4月より、筑波大学大学院博士後期課程への進学が決まりました。

今後は、アメリカでのシティズンシップ教育に関する研究を進めていく予定です。


そして研究の傍ら、実践活動のほうでは、湘南のまちを舞台に、こんな取り組みを始めています。

「湘南まちいくプロジェクト」
 http://shonan-machiiku.com/
 http://www.facebook.com/shonan.machiiku



皆でまちのことについて考える、高校の授業。

湘南の高校生が一緒に集まって、まちにかかわる活動をする、クラブ活動。

地域の方と連携した、高校生向けプログラム。


…などなど、高校生がまちや社会に参加していく学びの場を、藤沢・鎌倉を中心とした湘南エリアで
いろいろと展開していこうという、大学生・院生や若手社会人による活動です。



高校生がまちに参画していく学びの場を広げていくことは、
今、このまちをより良いものにしていく助けになるとともに、高校生が成長する大切な機会となります。

また、一人ひとりが、住みよいまちの実現に向けた議論や課題解決にかかわっていくという未来に向けた、
“未来のまちの担い手”を育むことにもつながります。


僕が研究のほうで専門としている、「シティズンシップ教育」は、
教育のアプローチから、こうした教育/学習 をつくっていく分野ですが、
この分野において、学校教育と社会教育が連携して、
地域全体でこうした実践を展開していくという事例は、まだほとんどありません。

ですから、立ち上げた当初は、本当にできるのだろうか、と不安もありました。

けれども、動き始めていく中で、湘南地域のいろんな方とお話させて頂くようになり、
私たちの思いや活動内容に共感して、支えて下さる方とも、数多く出会うことができました。

はじめは小さなところから、一歩ずつ始めていくことになりますが、
この湘南という地域なら、きっと実りある活動ができる、という思いを強く抱き始めています。


まち全体に、まちとかかわり、参画していく高校生の学びの場が、広がっていく。
そこで、たくさんの高校生がともに成長し、未来のまちの担い手が、育っていく。

そんな未来を思い描きながら、日々動いています。


* * *

現在、「湘南まちいくプロジェクト」では、4月からの本格的な活動スタートにあたり、
一緒に活動して下さる方を募集しています。

活動に参加してみたいという方は、info @ shonan-machiiku.com までお気軽にご連絡ください。
(※@を半角の@ に変えてお送りください。)

なお、3月21日・26日には説明会も実施予定です。詳細は、以下のURLをご覧ください。
http://www.facebook.com/shonan.machiiku/posts/224635747677628
(Facebookが見られない方は、こちらをご覧ください。)


まだ動き出したばかりの小さな活動ですが、
一緒に動いてみたいという方、ぜひお待ちしています。

「蓄積」の意味

もう2年以上前だけど、こんなツイートをしたことがある。





これまでいろんな人たちが探究し、議論し、蓄積してきたことを無視して、いわばそのときの「思いつき」で何かを動かしてしまうこと。


それを全部否定するわけではない。ときにはスピード感が大事な場合もある。

ただ少なくとも、行おうとしていることの影響力が大きければ大きいほど、そうしたことにはきわめて慎重であるべきだと思う。

蓄積されてきたもの自体を簡単に否定・無視することは、いわゆる「べき」論として「そうすべきでない」というのもあるけれど、何より、「もったいない」のではないかなと思う。どこかに有力なヒントが豊富に眠っているかもしれないわけだから。

(自分がevidence-based、あるいはevidence-informedな教育政策の形成・実施などにも関心がある理由はいくつかあるけれど、一つには、こうした経緯からでもある。)




まぁ、こうやって偉そうに書きながら、自分自身も、卒論を書いていた頃や、修士課程に進学して間もない頃は、例えば「先行研究に敬意を払う」と言われても、頭ではわかっているようで、どこかピンと来ていなかったようにも思う。
 
でも、修士課程に進学し、2年間研究というものをかじり始める中で、その意味がようやくわかり始めてきたと感じる。

だから自分自身も、何か新たなことを始める際に、これまで蓄積されてきたことから学ぶことは心掛けたいし、せめてそうした蓄積に対して謙虚でありたい。



ただ、こうした蓄積が、それを必要としている人(あるいはそれが本来必要である人)に知られていない、伝わっていないということも、多くの場合、また事実だと思う。

少なくとも研究者コミュニティのなかでは、実践や政策と研究をいかにしてつないでいくかということが、近年よく議論されるようになってきているけれど、まさにそうした課題に真正面から取り組んでいく必要がある。


先日の記事で「発信・提言」と書いたのは、そのためでもある。

まずは今の自分自身にできることは、やっていきたい。
同時に、個人単位だけでなく、そうした仕組みを少しずつでも構築していくことも含めて、これから自分に何ができるのか、考えていけたらと思っている。

「応える」ということと、2013年。

大学院生になって2年弱が経つが、ありがたいことに、自分がこれまで研究や実践で取り組んできたことに関心を持って下さった方が、声をかけて下さる機会が少しずつ増えている。


あるいは、旧来の友人や先輩・後輩が、こんなことができないか、いつかこんなことやろうよ、と声をかけてくれる。


そうした中で、昨年の終わり頃から徐々に感じ始めていたこと。


それは、自分を求めてくれる人(たち)がいるのであれば、そうした人(たち)の力になりたいという思いが、以前にも増して強くなっているということだった。


自分自身としてはどんなことがしたいか、どのように生きたいか、ということも、考えてはいる。
ただ、自分の中で考えれば考えるほど、その答えがわからなくなってきているように感じる。


もしかすると、自分のことを知っている方の中には、自分の意志よりも、周りに応えていくというのは、なんだか受動的だと感じる方もいるかもしれない。


けれど、自分を求めてくれるということは、自分が重ねてきた何かに対して、その人たちも少なからず思いを重ねてくれているということであり、変えたいという思いをともにできるということでもある。だから、実はこうした生き方は、ときには、思いを重ねた人たちとともに変革を引き起こしていく契機にもなりうる。


むろん、今の自分が持っているものは、ごく小さなものでしかないので、誰かに求められるような存在になれるよう、あるいは求めてもらえるだけの力量や経験、専門性を持てるよう、まだまだ本当に多くのことを学んでいかないとと改めて思う。


「こうしたい」という思いをともに実現できるよう、2013年も一つ一つしっかりと積み重ねていきたい。


---

最後に、今年どのようなことに取り組んでいきたいか、ごく簡単ではあるが書いておきたい。


(1) 研究

これまで修士研究としては、高校でのサービス・ラーニング(地域や社会の課題の解決に取り組む学習)の実践研究を中心として、シティズンシップ教育の研究を行ってきたけれど、今後は実践研究からは少し離れる予定だ。

まだ決まっていないところもあるが、アメリカのシティズンシップ教育に関する研究に取り組むことを考えている。これまでとは違い、実践と研究をある程度切り離すことによって見えてくることを、大事にしたいと思っている。


(2) 実践活動

修士での実践研究は終わり、「わかもの科」プロジェクトの活動も締めくくることとなったが、自分にとっての大事な足場として、実践活動は続けていく。

具体的には、藤沢・鎌倉などの湘南エリアでのシティズンシップ教育の機会の充実に取り組む新しいプロジェクトを、仲間とともに立ち上げており、2013年度からは本格的な取り組みが始まる予定だ。
(ちなみに現在、一緒にプロジェクトを作っていきたいという大学生メンバーも募集中なので、興味のある方はご連絡ください。)


(3) 発信・提言

シティズンシップ教育の研究や実践に、まがりなりにも取り組む身として、これから力を入れていかないとと思っているのが、シティズンシップ教育に関する情報発信や提言だ。

個人としてもきちんとやっていきたいし、こうした発信・提言にもつながる取り組みにかかわらせてもらえることにもなりそうなので、しっかりと経験や勉強を重ねながら、自分にできることをやっていきたい。



本年も、宜しくお願い致します。

変わらず、積み重ねる。

2011年3月11日の東日本大震災から、今日でちょうど1年が経った。


今日という日は、あくまで一つの通過点でしかない。


自分自身がやるべきことは、これからも変わらないし、一朝一夕で終わるようなものではないからこそ、自分がやるべきことを地道に日々積み重ねていきたい。


ただ、それは、何もゆっくりと進めていけば良いということではない。


自分が取り組んでいるのは、シティズンシップ教育(いわゆる“お任せ民主主義”ではなく、地域や社会のことを考え、参画していく市民を育てる教育)の実践や、それを支える仕組みのモデルについて研究し、また実際に作っていくこと。いわば、しなやかで強い市民社会を作っていくための、“土台”の一つだと考えている。


こういったモデル作りには、その質が求められるのはもちろんのこと、ある程度のスピード感も大切だと感じている。


時間がかかることだからこそ、スピード感を意識して、様々な方の力も借りながら、進めていきたい。


それが、広い意味での“復興”への、自分なりの貢献のあり方だと考えている。

アメリカの教育改革から、何を学ぶか。

昨日・今日と、毎日放送の「VOICE」というニュース番組で、アメリカの教育改革で何が起こったのか検証しながら、大阪の教育改革の方向性について考えるという特集が放送された(前編リンク後編リンク)。


実際、アメリカの教育改革と、大阪の教育改革は、方向性としては重なるところも多い。


むろん、国が違えば様々な事情も違うので、安易な比較はできない。ただ、少なくともアメリカの教育改革で何が起こったのか、冷静に検討し、学べることは学び、議論の参考に据えることが大切なのは、言うまでもない。


まず、放送の内容をメモしたものを、以下に貼り付けておく。
(あくまでメモなので、読みにくいところがあるかもしれませんが…)


<2月16日放送分>

ワシントンの中心部で、公立学校の学力レベルの低さが問題になった。
そのワシントンで、今から5年前に、ミシェル・リーが市の教育長に就任。
 
リーは、学力の向上は教員の質で決まると考え、評価の低い校長や、成果を出さない教員を解雇。
1年あまりで、“公教育の場から、無駄なものを掃き出す改革者”として称賛を浴びるようになる。

取材先のある学校現場では、校長が、全ての教員に全米学力テストで結果を出すよう求めていた。
テストの平均値は1年で3割も上がったという。

校長は、
 “努力しない先生もいたんです”
 “私は罰だと思いません。先生には責任(accountability)があるんです”
などと語る。

リーは、成績が改善されない23の学校を閉鎖、250人以上の教員を解雇。
“ダメな”教員と学校を、教育の現場から追い出すというシンプルな手法は、当初市民にも歓迎された。

このような改革の背景にあったのは、「NCLB法」(No Child Left Behind)と呼ばれる法律。
全米学力テストを小4・中2に実施し、その結果を州、地域、学校ごとに公表することが義務付けられ、
成績が上がらない学校には、廃校やペナルティーを課しても良いとされる。

 (※補足)
 NCLB法では、全ての学校に全く同じ結果が求められているわけではない。
 AYP(Adequate Yearly Progress=適正年次学力向上)の達成するかどうかが評価対象。
 AYPは、児童生徒一人ひとりの学習進度の目標を設定・評価するもの。
 ただ、この評価方法には問題もあると言われている。

 (※補足2)
 NCLB法の場合、廃校やペナルティーは「課しても良い」であって、義務ではない。
 あくまで州の権限に委ねられている。
 ただ、後述するRTTTというさらなる改革によって、廃校やペナルティーといった対応を
 含む改革が促進されうることは、否定できない。

学力向上を掲げていたはずのリーの改革。しかし、多くの教員の解雇の理由は人件費削減だった。
リーの改革のねらいは、市長の意向を受けた、公教育の縮小・再編だという指摘もある。
実際、多くの教員が若いパート教員にすりかえられ、教員不足が深刻に。

結局、次の選挙で市長が敗れ、リーも教育長の座を追われた。

“リーの求める高い水準の結果、学校の標準レベルを上げた”という声もあった一方で、
教育学者 Daine Ravitchは、
 ・NCLBにより、民営化が推進された。テストが重視され、教師への罰則に重きがおかれた
 ・教育の質が上がるどころか、かなり下がったと思う
と語る。

Ravitchに、大阪の教育基本条例案を英訳したものを見せると…
 ・教師に対してとても懲罰的で、子どもを預ける教員に対して敵対的な態度を持っている
 ・この条例は、NCLB法と共通項が多く、轍を踏むことになるのではないか
 ・良い教師が処罰されたり、現場を去ったり…日本の子どもたちのことを心配しないといけない
とのこと。

スタジオでのコメント:
 ・アメリカの公立学校の新任教師の半数以上が、5年以内で離職する事態に
 ・アメリカの例と大阪の例には、異なる部分もある
 ・子どもの学力が上がったかどうかが一番肝心
 ・ただ、改革の検証や評価には時間がかかる


<2月17日放送分>

ニューヨーク・ジャマイカ地区で、伝統校の閉鎖が決定。
中退者や落第者の多さが理由とのことだったが、ここ数年は卒業率は9割近くになっていたという。
もうすでに新しい学校が、同じ校舎の一部で授業を始めていた。

生徒の声:
 “学校で起きていることがいやでたまらない”
 “長い歴史のある学校が閉鎖されるなんて悲しい”
 “新しいスタートと言うけれど、同時に今あるものを壊していることに気づいていない”

“教師は生徒に「学ぶ喜びを忘れろ」「創造性はいらない」「正しい答えを書けば良い」と言う。
 これは21世紀の教育ではない”とRavichは語る。

NCLB法の結果、成績が振るわない学校は、芸術や体育の時間を減らし、
テスト対策の時間を増やして対応せざるを得なくなった。

解雇を恐れた教員の中には、勉強が苦手な生徒を休ませたり、テストの答えを教えたりした教員も。

 (※補足3)
 放送の中では、これは“珍現象”のような扱いで紹介されていたが、ここまで極端でなくとも、
 数値を上げることに必死なあまり、おかしな措置が取られる現象は、幅広く見られたようだ。
 例えば、テキサス州では、特別な教育的ニーズを持っている生徒は、テストを受けるものの、
 学校が州に報告する結果にはその成績は含まれないことになっていた。その結果、
 教育的ニーズ措置の対象とされる生徒は、4年間で4.5%から7.1%にまで増えたという(Haney, 2000)。

Ravitchは、教育基本条例案とアメリカの改革との共通点は、教員への懲罰的な態度だと語る。
これでは学校は成功しないという。

具体的には、
 ① 学力テストを実施し、結果を公表し学校を競争させる
 ② 教員の評価を厳しくし、校長の命令に背いた場合、免職もある
という点が、共通しているのだという。

アメリカでは、学校を閉校され、行き場のない子たちも増えている。

同じニューヨークには、州や市のやり方に抵抗するとともに、独自のやり方で成功してきた公立学校もある。
生徒が自分で選び、生徒の好奇心を引き出す教育。そして議論を大切にしている。




以上が、放送の内容である。


そして、2009年からのオバマ政権になり、アメリカではさらなる教育改革も進められている。2009年7月に連邦教育省が設立した「Race To The Top」と呼ばれる改革も、その主要な1つだ。


これは、連邦教育省が競争的資金を用意し、勝ち抜いた州に資金が与えられるというもの。しかし競争を勝ち抜くためには、連邦教育省の示す選出基準において、できるだけ高得点を取る必要がある。したがって、州の改革の方向性を連邦教育省が巧みに誘導しているという批判もある。


その選出基準(Selection Criteria)は、連邦教育省が出している資料から見ることができる(こちら)。これを見ると、教員や学校により一層の結果責任を求め、それができない教員や学校にはペナルティーもやむを得ないという内容が多く見られることがわかる。


さらなる改革によって、今アメリカで起きていることも踏まえながら、いくつか思うことを、以下に記しておく。



●環境が整えられないままに、「責任」を問うということ


全ての子どもが十分に必要な学力を身につけられるように、という平等保障への問題意識から設定されたNCLB法。


しかし、もともとアメリカでは、ワシントン市内もそうであったように、都市部などは、貧困などの社会的課題も多く抱え、家庭の事情も厳しく、教育成果を上げる上で困難とされる学校や地域が多いとされる。そのような“不利な(disadvantaged)学校・地域”であっても、ある程度の成果が求められるわけだ。


ただ、その成果を出すにあたって、必要な条件整備はなされてきただろうか。資金面の援助、コミュニティの問題の改善などの行政のサポートはあっただろうか。仮にそれが十分でないままに成果を求め、成果が出なければ教員の解雇、学校の閉校をするという改革を断行した場合、それは果たして正しい改革と言えるのだろうか。


さらに言えば、それでいて学校現場にやたらと「責任」を求めるのは、果たして正しいロジックなのだろうか。行政には責任はないのだろうか。



●短期的に「成果」が求められることの問題


2月16日の放送で、「学力が上がったかどうかが大事」というスタジオのアナウンサーのコメントがあった。アメリカの場合、何十年にもわたって深刻な学力低下や学力の格差が指摘されてきており、学力の向上は至上命題となっている。全ての子どもを、ある程度のラインには到達させなくてはいけないという底上げへの意識は高い。


ここで怖いのが、年次ごとに成果が求められる(上述の「AYP」)という点だ。教育改革の成果はすぐに出にくいものも多いにもかかわらず、成果を求められてしまう。このことが持つ問題は2つある。


1つは、短期的に成果を出しやすい対処療法に走りやすくなるということだ。


仮に、短期的に成果を出すが、持続しにくかったり弊害が大きかったりする改革と、成果はすぐには出にくいが、持続しやすく“より良い”改革があったとしたら、どちらの改革を選ぶべきなのか(もちろん、実際の改革はこんな二項対立で語れるものではないが)。


例えば、教員の同僚性が学校教育の改善にプラスに影響するということは、よく教育学の領域で言われるが、教員間の確かな同僚性を築くためには時間がかかるし、それが実際に子どもたち・生徒たちの「学力」に直ちに反映されるわけではないだろう。そんなアプローチよりも、もっと手早い成果を求めるアプローチをやっていこう、という主張もありえるだろう。


先ほどのアメリカの背景も踏まえれば、「改革に10年かかりました」では済まされないかもしれないし、短期的にも何かしらの「成果」を出さなければならないという論理もわかる。実際、子どもたちはまさに今、すでに教育を受けているわけだから。


ただ、短期的な改革に重点を置きすぎるあまり、長期的に「より良い改革」を行っていく妨げになるとすれば、それはまずいのではないか。先ほどの同僚性の話で言えば、例えば、教員評価と給与や任免を結びつけることが、教員同士の学び合う関係を損ねてしまうという批判があるが、これもその一例だろう。


もう1つは、短期的に成果が求められるあまり、成果が求められている領域ばかりに、極端に重点を置くことにつながるということだ。これは、芸術や体育といった科目を削るという対応に如実に表れている。


不利な学校では、成果をクリアすることは容易ではない。そうすると、比較的恵まれた環境にある学校では、さほど極端に焦点化した対策を行わなくても、成果を出せる一方で、そうでない学校では、テスト対策に焦点化せざるを得ないということも十分に考えられる。


Ravitchは、教育の「質」というフレーズを使っていたが、まさにここで生じうることは、受けられうる教育の「質」の格差(もう少し正確に言うならば、教育内容における「幅」の広さの違い、という感じかもしれない)を一層広げてしまうという新たな危機ではないだろうか。



●そもそも「責任」は、誰が担うのか


放送での校長へのインタビューで、「responsibility」ではなく「accountability」(説明責任)という言葉が使われていた。この言葉が、「責任」をめぐる問題を象徴しているように思えてならない。


学校には確かに役割があるし、その役割を果たす責任がある。けれども、責任主体は学校だけなのか。行政の責任はないのか。市民に責任はないのか。


学校間を競争させ、保護者を「顧客化」すること(アメリカでの新自由主義型教育改革への批判でよく用いられる言葉)は、保護者と学校との関係を変質させてしまわないだろうか。


学校にも保護者にも、それぞれ基本的に求められる役割はあるだろう。ただ、不利な学校も、不利な家庭もある。だからこそ、学校が保護者を助けることも、保護者が学校を助けることもあっても良いし、あるいは保護者同士、学校同士が助け合うことだってあっても良い。


教育における「責任」の境界線は、そもそも曖昧なところも多いし、場所が変われば境界線は変わりうる。一律でトップダウンで決められるような単純なものではないはずだ。


にもかかわらず、そこに線引きを加え、「説明責任=accountability」の論理を持ちだした改革を断行することは、上に書いたような共助的な関係を築き上げる可能性を、破壊してしまわないだろうか。




アメリカの教育改革では、ときに「子どもたちのために」という大義名分のもとに、大切なものが犠牲になるということが見られた。それは果たして、本当に「子どもたちのため」になっているのか。また、そのような議論を待たない改革が、「子どもたちのため」になるのか。そのことが、慎重に問われなくてはいけない。


むろん、繰り返しになるが、アメリカの教育改革が、そのまま全て大阪の話に当てはまるわけではないし、放送された内容はマイナス面ばかりクローズアップしすぎていたのではないかという声もあるようだ。ただ、少なくとも、他の国で行われた改革に、どのような批判があるのか知り、それを受け止める必要があるのは間違いない。


だからこそ、Ravitchが放送の中で言っていた、“せっかく教育改革する機会があるのだから、アメリカが10年間歩んできた過ちを繰り返してほしくない”という言葉を、しっかりと受け止めたい。

デボラ・マイヤーの講演会

少し前になるが、1月10日に、東大教育学部でデボラ・マイヤー(Deborah Meier)さんの講演会があり、参加してきた。


デボラ・マイヤーは、以前このエントリーでも紹介したが、『学校を変える力 ―イースト・ハーレムの小さな挑戦―』という本の著者で、ニューヨークのイースト・ハーレムにおける学校改革で有名な方だ。アメリカの教育研究者の最高の名誉とされるナショナル教育アカデミーの会員でもある(教育実践者の会員は、デボラ・マイヤーが史上初)。


ニューヨークのイースト・ハーレムという地域は、もともと貧困、家庭崩壊、非行といった問題に悩まされてきた地域だったが、そのような大変な地域での学校改革の成功は、ニューヨークに大きな反響を呼んだという。


そんな彼女の講演会の内容の中で、特に印象に残った話や言葉などを、書きとめておきたい。



●“葉っぱ”のエピソード


デボラ・マイヤーがまだ若かった頃、ある子どもに、“葉っぱは生物 (living) か、無生物 (non-living) か?”という問いを投げかけられたという。


答えに困った彼女が、知り合いの科学者に相談したところ、こう言われたという。


“He is on the cutting edge of modern science!”
(その子は、現代科学の最前線にいるよ!)


いわく、現代科学では、生物と無生物との境界線は、以前よりも、より複雑になってきているんだそうだ。この話を足がかりに、さらに子どもたちの学びを深めていったとのこと。


このエピソードは、題材/対象の大切さを物語っているように思う。


その題材をめぐって、対話や議論が誘発されていくような、そんな題材。


白か黒か、というように単純に切り分けられない、深い題材。


その大切さを、改めて教えてもらった。



●民主主義、市民として生きること


民主主義は、デボラ・マイヤーの教育観の根底をなす考え方の一つだ。民主主義を守り、伝えていくことが、学校教育の大切な役割であると、デボラ・マイヤーは信じてやまない。


デボラ・マイヤーは講演会でこう語っていた。


“Democracy is fragile; it must be generated in each generation”
(民主主義は、もろい。だから、それぞれの世代で作られていく必要がある)


また、デボラ・マイヤーは、教育において、“have a voice and say about modern world”(現代の世界に対して自分の意見を持つこと)ができる“active participant to this complicated world”(この複雑な世界への能動的な参加者)を育てなければいけないという。


教育においては、民主主義の担い手としての市民を育てることが、重要なのだと彼女は信じている。


ちなみに、デボラ・マイヤーは、『学校を変える力』の中で、こう書いている。


“何を学ぶべきかの決め手となるもの、つまり学びの原動力となる基準は、学問世界からの要求ではなく、民主的な市民として何をなすべきかということでなければならない” (p.248)



●公教育への問題提起


デボラ・マイヤーは、講演会の中で、次のような問題提起をしている(スピーチ抜粋資料より)。


“子どもによって必要な教育は違うと思いますか?子どもたちのスキルや能力や社会階級や性別によって、ふさわしい教育を選ぶべきだと思いますか?私は、そうは思いません。どの子どもにも最良の教育が必要なのであり、習熟度別に子どもたちを分けたり、優秀な子どもたちとそうでない子どもたち用の教育を用意するなど、何の意味もないことです”(北田佳子さん訳)


彼女の言葉は、教育のサービス化とも言えるようなアメリカの教育事情や教育改革の動向を意識しているものであるのだろう。ただ、アメリカだけでなく、それこそ日本にだって当てはまる問いかけだ。


公教育の役割とは、何か。何が公教育を、公教育たらしめるのか。


彼女の言葉は、そんな問いを、真正面から突きつけているように思う。

2011年、考えたこと。

昨年の大晦日(といっても数日前だが)、少しゆっくりと時間が取れたので、2011年という年に、自分はどんなことを考えたのか、改めて振り返った。


その中で、昨年一年で、特に自分が意識するようになったことや考えたことがいくつかあったので、それをまとめてみたい。


---


●「専門家」の役割


市民の力で社会を良くしていこう、という流れが、近年の社会の流れの中で活発になりつつある。自分自身も、シティズンシップ教育という教育実践を通して、より多くの人が、“市民”として社会に積極的にかかわっていくことを目指している。


ただ、最近感じているのは、「市民」の役割に加え、「専門家」がどういった役割を担っていくべきなのか、ということが同時に問われなければいけないということだ。


自分はNHKの「プロフェッショナル ~仕事の流儀~」という番組が好きで、よく見ている。


その中で、スーパー経営者の福島徹さんの回で、“いいものはいい、と言い切る覚悟”という言葉があり、“まさにこれだ”と感じたのを今でも覚えている。


ときに、多くの人が考えていることとは異なる見方や結論に至ったとしても、自身の豊かな経験や専門性にもとづき、“これは必要なんだ”、“これは大事なんだ”と示していくこと。


これは、専門家に不可欠な役割だと考えている。


もっとも、これは市民の参加を否定するものではなくて、市民と専門家が、それぞれ役割を果たしていくことが重要だ、ということ。むしろ、これはいわば議論の出発点でしかなくて、これから先考えなくてはいけないのは、市民と専門家とが、いかなる関係性を築き、どのように協働していくのが良いのかということなんじゃないか、と思っている。



●「研究者」の役割


自分自身が目指す「専門家」は、「研究者」という職業になるのだと思う。


では、その「研究者」の役割とは何か。これも今年、かなり考えさせられた問いだった。


自分自身も取り組み始めている、学校教育における協同的アクション・リサーチでよく議論になるのは、「学校の先生」と「研究者」がどのような関係で、実践や研究を進めていくべきなのか、ということだ。


アクション・リサーチの場合、その研究の目的によって、その関係性のあり方は様々だ。


ただ、自分自身としての一つの理想は、向かうべきビジョンや実践像(のたたき台)を示し、それに共鳴して実践を作ってくれる人たち(例えば学校の先生など)に寄り添い、ともに学び、またときにはサポートしていきながら、研究としての知見を生みだしていくこと、なのだろうと考えている。


おそらく、研究者がどのくらいビジョンやアクションを示すべきなのか(どのくらいビジョンや具体的なアクションを皆で作っていくべきなのか)といったことは、取り組む領域や時期/段階によって、かなり異なるとは思うけれども、ある種の最初の火付け役、そしてエンパワーメント役として、研究者が担っていくべき役割は、きわめて重要だと思う。


目の前の実践に日々取り組む人たちとは違い、一歩二歩引いて見るからこそ見えるビジョンや実践像を示し、実践者とは異なる視点で実践を分析し、また実践者を支え、実践者とともに歩んでいく。これが、自分自身が目指したい研究者像だ。



●一歩引くこと、“離れる”こと


かつては、振り返ってみれば、様々な大学生との出逢いを楽しみ、twitterなどのソーシャルメディアで、強い思いを持った人たちとつながり、その流れをともにすることに大きな喜びを見いだしていたように思う。


もちろん、今でも人との出逢いは大事にしていたいという思いは、変わっていない。でも、「まずはつながる」ということや、「流れに乗る」ということからは、一歩引くようになったことが多い。


それは一つには、まだ自分が何も残せていない、という意識が強くなったからだと思う。「つながる」ことも大事かもしれないけれど、それ以前に、まずは自分がしっかりとしたものを残すことに集中しなければ、という思いは、日に日に強くなった。


きっとそれは、大学院という場所に、M1という「一番下の後輩」「見習い」として入ったということも、関係している。自分には、まだ何もないし、偉そうに語れる資格もない。だから、まずはしっかりと勉強し、小さくても形にすることが、自分が真っ先にやるべきことなんだと思うようになった。


そしてもう一つには、「研究」という立ち位置による意識もある。この1年で、目の前のことに向き合いつつも、常に一歩、二歩引いて見ることを、より強く意識するようになった。


その象徴とも言えるのが、カフェという場所だった。どんなに忙しくても、定期的にカフェに行く時間は確保するようにしていた。そしてカフェでは、離れて俯瞰したり、長いスパンで考えたりといったことをする。(もちろん、本や論文を読んだり作業をしたりすることもよくあるけれど。)そして、カフェにいるときは、極力“オフライン”にするようにしている。意図的に、いろんなことから“離れる”ためだ。


そういう時間が、自分にとってとにかく大事だということを、今年は特に感じた年だった。



●何かを“残す”ということ


これは以前のエントリーでも書いたこととかなり重なるけれど、昨年は、3.11や、身近な人の死といったことの影響も自分の中にはかなりあった。


なかなか感覚的なもので言葉にしづらいのだけど、以前よりも、何かを“残して”いくことを意識するようになった気がする。


自分は、自分自身の中でじっくり温めるということを大事にするタイプだったと思うし、今でも常にそういう面はある。


けれども、明日、自分の人生に突然ピリオドを打たれることだって、あるかもしれない。そんなことを以前よりも強く感じるようになってから、“形にして、残して”いかないと、という思いも必然的に強くなった。


その“形にする”というのは、例えば論文かもしれないし、実践かもしれない。ノートに日々考えたことを綴ることもそうだし、このブログだってそうだ。いろんなかたちで、考えたことを“形にする”こと、“残す”ことをしていかないとな、と思う。




…というわけで、このブログも、今年はもう少し更新していければ良いな、と思っているので、気が向いたら、お時間があるときにでもご笑覧ください。


本年も、宜しくお願い致します。
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